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やりたくない仕事もとりあえずやってみる。今若い人に贈る私の昔話。

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まだ夏休みでもありますし、今日はちょっと趣向を変えて、私が工科系の大学に入ってから技術者として仕事をしていた30代までの回顧録です。

以前に個人ブログに書いていた文章を編集したので、以後文体が変わります。

お時間のある方はおつきあいください。

では!

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コンピュータは絶対にやらない!と決めた学生時代

中学生の頃から真空管ラジオを作ったりアマチュア無線をやったりしていた私は、大学は電子通信工学科という学科を選んだ。

ところが、いざ本格的に勉強するとなると、やはり訳が違った。まず、「電波工学」という学科で玉砕した。教科書を開くと、イトミミズがのたくったような数式が並んでいる。偏微分というやつだ。

私はそもそも数学が苦手だったのだ。電波の世界は数学の世界だったということを思い知らされて、この学科の単位取得は見送る。

次の鬼門が「電子計算機」という科目だ。当時のコンピュータというのは、部屋1つ分の大きさがあり、ガラス張りで空調の効いた大学で一番環境の良い部屋に1台だけ鎮座ましまして、皆、順番待ちで使う。それも入力はキーボードなどではない、マークシートのカードで読み込ませるのだ。

これがまた難儀だった。プログラムをマークシートに書いてはエラーが出て、何度も書いては電子計算機室に持って行き、を繰り返さなくてはいけない。

かくして、この学科の単位取得も見送った。この時私は、コンピュータというやつは全く私とウマが合わないと思った。そして、「将来就職しても、絶対にコンピュータ関係はやらない!」と心に決めたのだった。

しかし、コンピュータの波が攻めてきた

就職は、医療機器関係のメーカーだった。開発部門に配属された。そこにはイトミミズもマークシートカードも無くて、ハンダごて持って好きなモノ作りに浸れる環境があった。

しかし、そのうち風向きが変わってきた。「マイコン」(マイクロコンピュータの略)というやつが出現してきたのだ。今までロジック回路で組み立てていたシーケンス制御などは、メモリに書き込んだプログラムで動かすようになる。

電子回路の設計担当者は、否が応でも、機器制御のための「マイコン」を習得する必要に迫られた。もちろん、そのプログラミングも含めてだ。

「将来就職しても、絶対にコンピュータ関係はやらない!」と決めていた私が、プログラミング、それも8ビットCPUのアセンブラという、人間よりも機械の言葉に近い、言語ともいえない代物に取り組まなければいけないことになった。

やってみたらだんだん面白くなってきてしまった

ところが、である。やり始めてみたら、これが面白いのだ。

自分が作ったプログラムに従って、機器が思ったように動く。私がやりたかったモノ作りの醍醐味を存分に味わうことが出来る世界が、プログラミングにはあった。

かくして、30代半ばまで、開発の仕事でかなり面白く仕事をさせて頂いた。

それだけではなく、趣味でまでプログラムを作るようになり、作ったプログラムをフリーウェアやシェアウェアとしてパソコン通信で公開したりということまでやるようになった。

何が、「絶対にコンピュータ関係はやらない!」だ。

神様が「お前はこれをやってみろ」と言っている。

今思えば、あの時、「絶対にコンピュータ関係はやらない!」という初志を貫徹していたらどうなっていただろう?と思う。

やりたいことと違うと言って、会社を3年で辞めていたら、その後どうしていただろう?

そう考えると、若い時に与えられた仕事は、まずやってみることだなと思う。そして、どんなことでもやれば、それが必ず将来に繋がっていく。私はそれを実感する。

良く若い人が、「自分がやりたいことが分からない」ということがあるけれど、私は若いときは、「やりたいこと」をそんなに無理して考えなくてもいいと思う。

与えられた仕事をやってみれば、その面白さが分かってきて、そのうち好きになるということはかなりの確率で起きることだと思うから。

神様が与えてくれる「課題」は決して気まぐれではなく、「お前はこれをやってみろ」ということだと思うのだ。

 

では、今日はこのへんで!

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